梅森東(うめもりひがし)城

年月日撮影


◆別名:

 

◆所在:

日進市梅森町西後

 

◆交通:

 

◆歴史:

松平助左衛門の居城と言われているが、助左衛門自身の出自はもとより築城年なども不明。

 

近隣の梅森北城は佐々木松平家(松平広忠の叔父にあたる人物)の松平三蔵が築いた城とされており、助左衛門も佐々木松平家と関わりがあった可能性もあるが、松平三蔵は三河一向一揆では一揆側に付いた上、敗戦後は今川へと逃亡しており、佐々木松平家の系譜自体抹消されているようである。

 

これ対して松平助左衛門本人の詳細は不明ながら、娘は後に駿府町奉行などを歴任し家康の信任も厚かったと思われる彦坂九兵衛に嫁いでおり、彦坂家の中で助左衛門の血筋は残されている。

 

◆現在

梅森地区には、梅森北城と梅森東城の2つの城が存在した。

しかし、城があったと伝わる地はなぜか3ヶ所あり、現在梅森北城の碑が立っている眺景寺が城跡である事は確定しているが、もう1ヶ所は東名古屋病院近辺と言う説と、宝珠寺の北西にあったと言う2つの説が存在している。

 

このサイトでは宝珠寺の北西が梅森東城跡と言う説を採用しているが、これは、現在、梅森北城碑が立っている眺景寺が、そのまま梅森北城であるとした事で採用した説である。

 

しかし、城跡碑建立時の詳細を調べてみると、確実に城があった眺景寺に、とりあえずは梅森北城の城跡碑を立てたと言う、なんともあいまいな状態での城跡碑建立だったようである。

 

もし、東名古屋病院近辺が城跡となった場合は、眺景寺(現在の梅森北城跡)が梅森東城になり、東名古屋病院近辺の城が梅森北城になってしまうのだが、発掘調査等でも遺構や遺物が発見された記録はなく、これからもあいまいな状態のまま歴史に埋もれていくと思われる。