梅森北(うめもりきた)城

2015年4月27日撮影


◆別名:

梅森城

 

◆所在:

日進市梅森台1

 

◆交通:

 

◆歴史:

由緒書きによると、佐々木松平家の松平三蔵が築いた城とされる。

佐々木松平家は松平家三代信光の弟に久親がおり、その息子の親久を祖とした松平一族の一つで、佐々木城を本拠としており、城内には上宮寺が建てられていた。

 

天文9年(1540年)に安翔合戦が起こると松平一族は分裂し、佐々木松平家は織田方に付いて本家と敵対するが、当主である松平忠倫(三蔵の兄と言われている)が松平広忠に暗殺されると、三蔵も領地を捨てて駿河の今川氏を頼って逃亡したようである。

 

天文12年(1543年)に今川義元が松平三蔵へ所領安堵の文書を出しているが、その中で『尾張国での領地数ヶ所を捨ててこちらに来て以来無償で奉公し、とても忠節の至りだった』と言う一文が存在しており、この時期に梅森北城は廃城になったと思われる。

 

後に、松平氏が今川氏の傘下に入ると、三蔵は兄の領地であった佐々木郷を今川義元から拝領し、佐々木城主となるが、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、三河統一を目指す松平元康と再び敵対。佐々木城内にある上宮寺などが三河一向一揆を起こすと、一揆側に付いて争うが敗れさったと言われている。

 

なお、梅森にはもう一つ梅森東城も存在しており、眺景寺の南にあったと言う説と、北にある東名古屋病院が跡地だったと言う説の2種類が存在する。

 

ただし、東名古屋病院が城跡だとすると、こちらが実際の梅森北城で、現在梅森北城の碑が立ってている眺景寺は名前が変わり梅森東城となる。

 

これは、この近辺を開発する際に、眺景寺近辺からは城跡と思われる遺物などが発掘されたが、他の2か所からは証明できる物が発掘されず、城の位置が特定できなかった事から、暫定的に梅森北城の碑を眺景寺に立てたと言う事である。

 

◆現在:

眺景寺の境内に梅森北城の碑が立てられている。


城跡碑の裏には由緒が記載されている。