本地(ほんち)城

2016年10月16日撮影


◆別名

 

◆所在

瀬戸市西本地1丁目

 

◆交通

 

◆歴史

今村城主である松原広長の叔父にあたる松原平内の居城。

松原氏は拳母一帯を支配する金谷城の中条氏に仕えており、中条氏の命により三河今村城から瀬戸今村城へと移り住んできたのは室町中期の頃である。

 

地元の逸話では、武田氏に追われた浪人集団が狩宿集落まで逃亡し、本地城を奪い取ろうとした事があったが、狩宿集落の民は井戸桶やつるべなどを打ち砕き、水を使えないようにした後に逃亡したため、浪人集団が川沿いで食事の支度をしていた所、本地城主の松原平内は狩宿集落の民衆を率いて襲撃し、これを潰走させたと言われている。

 

応仁の乱では、平内は広長と共に山名方に付き、細川方に付いた桑下城の長江氏と安戸坂で対峙したものの、阿弥陀ヶ峰城近辺で広長と共に討死を遂げ、松原氏は衰退していったとされる。

その子孫は明確ではないものの、明治の頃までは方形の輪郭がたどれる事から、戦国から江戸時代までは城館として機能していたと思われる。

 

◆現在

宅地造成などが進み、城址碑の脇に弁財天の祠と空井戸の跡が残されているのみである。

この祠は城の守護と言われているが、池に囲まれている訳でもないので、区画整理などで移設されてきた可能性が高いと思われる。


城址碑の脇に建つ祠